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安倍政権は「移民ではない」と弁明しているので、あえてその言葉は使わないが、「外国人労働者を初年度で4万人増やす」ための法案が今臨時国会で議論されている。

私は、まず、外国人労働者を増やすことに消極的である。しかし、政治が本格的な少子化対策をずっと怠ってきた以上は、企業の人手不足を解消するためにはやむを得ないだろう。ただし、治安問題にならないよう、候補者の犯罪歴、テロに加担する可能性などを徹底的に調査すべきである。日本語、日本の社会常識、文化慣習なども教える必要がある。何年かかっても、厳格な研修を通してからでなければ就労を認めるべきではない。

簡単にいえば、「技能研修」という建前はもはや崩れているので、外国人労働者として認めた上で、そのための当然の環境整備を急がなければいけない。

たとえ外国人労働者を積極的に入れる立場であっても、「急がば回れ」である。現時点で、日本は魅力的な市場かもしれないが、近い将来、中国が人手不足で外国人労働者を大量に受け入れることになるだろう。つまり、外国人労働者の奪い合いの時代が到来するのである。日本的な「タテマエとホンネ」が通じない外国人に「技能研修」と宣伝しながら、その実態が低賃金労働であることは、すでに外国で評判が悪い。憲法第9条の平和主義もそうであるが、日本人にしか通じない言葉遊びは、外国人には欺瞞としか映らない。

もっとも重要なことは、日本民族を可能な限り増やすことが、基本であるということである。残念ながら、このための実効力ある政策は、議論すらされていない。現在の少子化対策、1億総活躍の政策は、「焼け石に水」に過ぎない。

たしかに、企業の人手不足だけを解消するのであれば、外国人で補充することで済むのかもしれない。しかし、我が国の医療・年金・介護が、少子高齢化によって論理必然的に財政破綻することに対し、保険料を払わない外国人はまったく役に立たない。また、自衛隊の入隊数が現役世代の人口減少とともに減るという防衛上の問題についても、外国人を増やすことは解決策にならない。

さらに、国土交通省の「国土のグランドデザイン」(2014年)では、日本列島を1平方キロメートルごとに区切って、人口の増減を見通している。この分析によると、30年後、現時点で人が住んでいる約18万地点のうち、63%で人口が半分以下になる。その3分の1にあたる19%の地点では、無人の地域になる。同省の「『国土の長期展望』中間とりまとめ」(2011年)によると、30年後には、我が国の離島の1割が無人島になる。これは、「技能研修生」をちょっと増やすことでは解決できない、国土保全の問題でもあり、危機管理ならびに防衛上の課題である。

繰り返すが、日本民族が増えることは国力増強の大前提である。

いずれにせよ、我が国の労働力人口(15歳から64歳)は、この20年間で約1000万人も減っている。しかも、これで終わらない。今後20年でさらに1700万人程度減ると予測されている。これを埋めるために、一体どのくらいの外国人を入れるつもりなのだろうか。

「入管難民法」の改正が、国家国民の本当の課題からして、一時の間に合わせに過ぎないのは、火を見るより明らかである。

第一回のブログで、西郷隆盛の言葉「政の大体は、文を興し、武を振ひ、農を励ますの三つに在り」を引用した。

この言葉に最初に触れたのは、学生時代に「南洲翁遺訓」を読んだときだったが、今になって、「これは実に国家運営の基本を示しているなあ」と痛感している。

戦後の日本は、「農を励ます」ことに力を注いだ。農業自体は軽視されたが、西郷の時代の「農」は今でいう産業と解釈すべきである。偏った形であるが、少なくとも産業振興を目的に「文」もそれなりに興してきた。武の方は、米国からの要求に応じ、あるいは、応じるふりをして自衛隊を創設し、防衛政策もより積極的になった。それでも「自分の国は、自分の国でも守る」という、地域の消防分団でも当然とされる精神は、米国の圧倒的な軍事的保護を前提にしてしか、語られなかった。

私が、学生時代に政治を志した頃は、バブル絶頂期であったので、自分の関心は「武」にかなり集中した。「文」の方は、人格教育や愛国心育成が足りないという意味で、問題意識はあった。しかし、バブルが崩壊し、人口が減少し、技術革新が振るわなくなった今となっては、「文」「武」「農」の根本を立て直さなければいけない時代に入った、と確信している。

一言でいえば「国力増強」をしなければいけないのである。

心ある人たちは、これを当然だと思っているかもしれない。しかし、まだ危機感は足りない。また、数年に一度、国民に成績表を突きつけられる政治家は、どうしてもその時々の世論の変化に左右されざるを得ない。その結果、目先の政策ばかり訴えてしまう。より安定的な職にある官僚の中には、長期の根本課題を憂えても、「右顧左眄する政治家に取り上げてもらえない」と押し黙ってしまっている。

現状は、1)「百年に一度の危機」といわれたリーマンショックと東日本大震災からの回復、2)世界景気の同じ頃からの持続的好調、3)アベノミクスの金融(とくに為替)・財政の刺激により、なんとなく日本の国力が回復している印象をもっている人すらいる。また、不安になればなるほど、楽観的な予想に飢えるので、いくら問題を指摘しても「危機をいたずらに煽る」と袋叩きにあう。

何ごとも「機をみる」のが大事であり、ただ「正しい」ことを言っていてもしょうがない。とくに政治はそうである。私は愚かなので、ずっとこうした訴えをつづけてきたが、自分の思いが時代の主調にならないことも、やむを得ないと考えてきた。

しかし、ここのところ機運が変わりつつあるように思う。

国内経済の回復は、弱った基礎体力(人口、技術革新)からもはや限界にきている。世界経済も、今や調子いいのは米国だけだが、その大統領が世界経済を不安定にするような一方的な通商政策を実行しはじめている。さらに、我が国の金融・財政政策も、すべての政府主導の景気対策がそうであるように、刹那の効果しかない。もっとも救済的だった円安政策も、とうとうトランプ大統領に公式に批判されるようになった。これまでの経験からして、日本単独で為替水準を決めることはできない。米国の少なくとも黙認がなければ為替水準は成立しないので、円安政策の恩恵を受けつづけられるのが難しくなってきている。

世界経済の崩壊について、数ヶ月前から、各国の識者が警鐘を鳴らしはじめている。とくに、リーマンショックの頃と違って、各国とも財政の蔵が空っぽであり、お金も最大限に放出しているので、さらなる刺激手段が厳しい。米国の中央銀行が、大統領からの圧力にもかかわらず、賢明に、また懸命に、金利上昇を断行しているのは、こうした事態に備えて、金融の武器を充填しているのである。

国民の意思がなければ、政治は無力である。近いうちに世界経済の歯車が狂い、我が国のモルヒネ効果が切れる可能性が高まっている。禁断症状に苦しみながら、日本の国力の老化した、弱々しい、裸の姿が明確に浮かびあがるだろう。そこから、である。国民国家一体となって、「文」「武」「農」をふくむ国力増強に邁進しなければならない。

天運があれば、私もこうした流れに参画していきたい。

政治は、昔から集団を束ねて、その生活を守るために権力を用いることを意味しました。もちろん、悪政の例もたくさんありました。しかし、どこの国や地域でも、政治が理想として目指してきたのは、生活の安定です。「政治」の「政」は軍事的に支配をし、秩序をもたらすという意味です。「治」は、治山治水の「治」でして、古代より人々の生活をもっとも脅かした自然災害に対し、権力者にしかできなかったことは、河川の整備や山の荒廃を防ぐこと、土砂崩れを防止することだったのです。

さらに、外国に対して自国を防衛するのも政治の本質です。論語にもあるように、孔子の弟子の子貢が政(まつりごと)とは何かと問うて、孔子は「食を足し、兵を足し、民之を信にす」と答えています。 幾星霜を経て、大西郷曰く。「政の大体は、文を興し、武を振ひ、農を励ますの三つに在り。其他百般の事務は、皆此の三つの物を助るの具也。此の三つの物の中に於て、時に従ひ勢に因り、施行先後の順序は有れど、此の三つの物を後にして、他を先にするは更に無し。」

政治の要諦は、教育文化、軍事力、農業を含めた産業を強化することにあり、ということです。

時代が現代に移り、西欧の啓蒙主義が広く行き渡り、科学技術が進み、行政の役割も広がりました。今や国民の生活の細部にまで政治が入り込んで、個人の思想信条の自由、言論の自由を守ることから、医療・年金・介護、障害者支援、ゴミ処理、インフラ整備、環境問題にまで及ぶようになりました。

しかし、これらも最終的には、国民の生活の安定を図ることを目的としています。

これらは、どこの国の政治にも通用する基本中の基本です。

ただ、人それぞれに個性があり、志があるように、それぞれの国の政治にも個性があり、志があります。それは、勝手に誰かがでっちあげるものではなく、その民族や国民の歴史体験によって形づくられるものです。

我が国は、古来よりアジア大陸からの文化的な、あるいは、軍事的な挑戦に立ち向かって、自分たちの独自の文明文化を形成し、外国からの支配を拒否してきました。その志は、中国に対等の関係を宣言した、聖徳太子の「日いづる天子、日没する天子に書を致す」という言葉にあざやかに示されています。もちろん、時には、妥協したこともあります。また、時には、この理想を貫くことができなかったこともあります。しかしながら、たえず大国に囲まれてきた我が国は、その独立と独自の文明文化を守る志を燃やしてきたのです。

さらに、維新からわずか50年も経たないうちに、日本政府は、パリ講和会議において「人種差別撤廃」を宣言しました。米国における排日の運動を念頭に、世界の紛争の原因が、西欧列強の植民地主義にあり、その背景に有色人種に対する差別偏見があったことを鋭く指摘したのです。そして、こうした差別を無くして、共存共栄の世界を築くべきだ、という旗を掲げました。

これは日本史上初の世界構想につながる理想でした。聖徳太子の一国自主独立のみならず、世界的視野に立って、どの国でもそうした権利を認めるべきであることを主張したのです。

もちろん、我が国は必ずしも、自分たちの理想にふさわしい行動をとってきたわけではありません。これはこれで、素直に認めるべきです。しかし、至らなかったことがあったからといって、我々の志が無意味になったとは考えるべきではありません。志というのは、そんなに簡単に捨て去られるべきものではありません。本物の志は、挫折につぐ挫折、幻滅につぐ幻滅を経て、さらにその輝きがなおまばゆく、なお熱を帯びてくるものであります。

ふたたび大西郷の言葉を引用すれば「幾たびか辛酸を経て、志いよいよ堅し」です。

戦後の日本は、これもまた国史上初の本格的な敗戦と米国による占領を経験しました。以降、外交防衛の大半また通商経済の相当部分を米国に頼る時代に入ります。米国は、露骨な支配をしませんでしたが、我が国の浅知恵と無防備と怠慢もあり、結果としては、現在かなり米国に依存をせざるを得ない状況にあります。この間の米朝会談は、これを裏づけています。

先の大戦に疲れ切った国民の大半、政治家のほとんどは、米国にボディガードを任せながら、経済成長を図ることを選択しました。あるいは、これをしたたかな政策と自負していた人もいたでしょう。しかし、ながらく自分の足で立たない生活がつづくと、足腰が弱ります。中国の春秋戦国時代で、衛星国が大国に依存した結末を教訓として、白川静先生が現代日本に対する感想を述べています。「日本のような状態は「附庸」というんです。属国のことですね。大きな国にちょこんとくっついている。これを「附庸」という。養分だけとられて独立していないと言うことです。そういうことが、中国の古典を読むとわかるようになります。」

アメリカの「米国第一主義」の外交がつづけばつづくほど、いかに我が国の養分が吸い取られてしまったかが、火を見るよりも明らかになってくるでしょう。トランプ大統領のポピュリズムは一時的な現象かもしれませんが、自分の国益だけを追求するという「孤立主義」は米国の建国精神でもあり、その外交の根強い伝統でもあります。冷戦時代が、むしろ例外だったといえます。我が国は、今後どのような大統領があらわれても、米国から少しずつ距離を空けられていくことを覚悟をしなければなりません。

これによりアジアに「力の空白」が生じます。そして、すぐお隣に、その空白を力づくで埋めようとする勢力が、虎視眈々と狙いを定めています。

こうしたきわめて厳しい国際情勢の中で、日本の政治は、これまでの長い歴史体験の中から、早晩「自分の足で立つ」という志を思い出さなければいけません。自分の足で立つことによってしか、政治の基本である国民の生活を守ることができないからです。

私の政治信条の第一は、ここにあります。