ブログ

迎春。本年も引き続きよろしくお願いします。

昨年に引き続き、今年の金融・経済は波乱含みになるだろう。米国の成長が失速していくことはほぼ確実であり、株式市場の乱高下はこれを反映している。消費税増税をどうするかをはじめ、政府と日本銀行は、それなりの対応策を検討すべきである。

他方で、ここ数年間、我が国は大企業が未曾有の利益を捻出し、失業率も低い。戦後、最長の好景気である。これはこれで結構なことだが、問題は成長率そのものがそれほど高くないことだ。もっと深刻なのは、今後もさらに成長率が下がっていくことである。

リーマンショック回復後の実質GDPの平均成長率(2013年から2017年)は1.3%である。平均すれば、私たちの所得が毎年1.3%ずつ伸びてきたのだ。これは、リーマンショック震源地の欧米に比べても低い。米国の同時期の平均成長率は2.2%、英国は2.3%、ドイツは1.7%である。

近い将来はどう予測されているか。国際通貨基金(IMF)の見通しでは、

(日本の実質GDP前年比の予測)

2018年 1.1%

2019年 0.9%

2020年 0.3%

2021年 0.7%

2022年 0.5%

2023年 0.5%

となっている。来年からゼロ%台の極めて低い成長の時代に突入である。他方、英米、ドイツは、少なくとも毎年1%以上は成長していくと予想されている。

では、遠い将来はどうか。同じIMFの見通しでは、「日本は人口減により、今後40年で実質GDPが25%以上減少しかねない」と警告を鳴らしている。つまり、アベノミクスなどいくら続けても、国民の所得が年々ひたすら目減りして、40年後には今の1/4も減るということである。

日銀や内閣府が試算する潜在成長率(=中長期的に実現可能な成長率)も、同じような傾向を示している。80年代後半の4%を頂点とし、90年代からずっと下降し、現時点ではゼロ%台であり、このまま将来マイナス成長になる可能性が高い。

もちろん「GDPは人の幸せと関係ない」という方もいると思う。しかし、GDP=国民の所得である。これが力強く伸びて、物質的に豊かな生活を確保するのは当たり前ではないか。そうしなければ、あまりにも将来世代が気の毒である。芸術であろうと、スポーツであろうと、趣味であろうと、どんな夢を追求するにも、資金が潤沢にあればあるほど良いに決まっている。

もっといえば、一人一人の生活水準も大事だが、力強い経済は国全体の国力にもつながる。国力という言葉は曖昧かもしれないが、通常、次のように定義される。

国力=((人口+領土)+経済力+軍事力)×(戦略目的+国家意思)

外交防衛も究極は、国民の生活を守るための機能である。外国との交渉の勝敗は、基本的にはこの国力によるのである。上の定義にある「経済力」は、一人当たりの経済力でなく、国全体の経済規模を指すのである。

さらに、社会保障、地方再生、農林業政策、中小企業政策、防衛、教育などの国家予算を確保するための税収の水準も、全体の成長率によって決まる。低い成長率であればあるほど、税収も減り、必要な政策を打つための財源がなくなるのだ。医療・年金・介護の水準も、一定の成長率が前提となっている。

では、経済成長率は何で決まるのか。それは、次の三つのエンジンである。

①    生産に必要な機械等の設備(=資本投入量)

②    労働力人口(=15歳から64歳の人口)

③    技術革新(=生産性をあげるための新技術)

これらは短期でなく、中長期の経済の基礎体力にかかわってくる。

短期の景気は、世界経済、オリンピックのような特需、公共事業、株価、為替、災害などによって上下に振れる。アベノミクスの円安対策ならびに株価吊り上げ対策も、当然、短期的な効果はあった。これも軽視してはいけないが、本当の問題は、為替や株価ではなく、経済の基礎体力がこの20年間弱ってきていて、今後も、さらに弱っていくことである。

具体的には、上の三つのエンジンのうち、①の労働力人口が激減していることと、③の技術革新が弱まっていることが大きい。

他方で、①の資本投入量については、無人化に向けた設備投資を中心に増えてはいる。しかし、②と③の問題で国内の市場がさらに縮小する中で、経営者は本格的な設備投資を躊躇せざるを得ないだろう。

ここで、政治家がやらなければいけないことは明確である。国民が将来の成長に希望をもてるように、②の労働力人口を増やし、③の技術革新を活性化する具体策を実行することである。そうすれば、企業も①の設備投資(や賃上げ)をしやすくなるはずであり、成長に必要な三つのエンジンに手当をすることができるのである。

それは、リハビリのように時間がかかる地道な作業だが、国力ある国家を次世代に残すためには、避けて通れない道である。

今回は、私なりの経済の診断書を示した。次回は処方箋について書きたいと思う。

水道民営化の法案が、先の臨時国会で強行採決された。これを受けて、報道や国民の皆さんから、「これで水道が民営化されて、料金の値上げがはじまるのではないか」と不安の声が上がっている。

結論からいえば、1)水の民営化は避けるべきであるが、2)報道で煽っているほど今回の法律改正ですぐ困ることもない、といったところだ。

まず、はっきりさせないといけないのが、政府は「本法案は民営化ではなく、水道の運営だけを企業に任せるコンセッション方式だ」と強弁していること。政府がなんと言おうと、コンセッションが民営化の一手法であるのは、世界的な常識だ。入管法議論の際の「移民」という言葉もそうだったが、つまらない言葉遊びはやめるべきである。

さて、そもそも水は食料と同様、生命に不可欠である。政治のもっとも重要な仕事は、国民の「食」を確保することである。これは「効率」を超えた責任である。もちろん、効率よく、水を安く安定的に国民全員に供給できるのであれば、なおさら望ましい。

今回の「水道法」の改正は、公的部門が水道管等を所有したまま、水の事業運営だけを民間に委託することを可能にするものだ(民有民営ではなく、公有民営)。ただ、民営化のためには、都道府県の許可が前提となる。したがって、例えば、京都府が認めなければ、民営化は京都では実行されない。法律が成立したからといって、自動的に全国の水が民営化になるわけではないのである。

問題は、何のために安倍政権は民営化を推進するのか。政府の説明によると、「1)人口減少にともない、水の利用者と水道事業の職員数が減る中で、2)老朽化する水道管の更新投資のためのお金と人が足りなくなるので、民間の力を借りる。」ということらしい。

しかし、問題は二つある。

まず、第一に、民間が運営したからといって、老朽化した水道管の更新がより進むのか。これは逆だ、と言わざるを得ない。通常、設備投資をする際、行政の方が民間よりも借り入れ費用が安い。また、水事業に限らず、事業を民営化すれば、企業はできるだけ費用を抑えて、利益を増やすために、投資をおろそかにするのが常識である。そもそも民間企業では、水道投資コストが高すぎて負担できないからこそ、公営事業として成立したのである。今後の更新投資の巨額の負担についても、民間で担うのはむしろ難しい。

もう一つの問題は、「民間の方が効率的に運営できる」という単純な主張だ。これは一般論としては、なんとなく通用するかもしれないが、水道事業について答えは必ずしもはっきりしていない。なぜなら、水道事業はほとんど競争原理が働かないからだ。また、水は生活必需品である。料金が高騰しても、消費者は水を購入せざるを得ないので、企業は価格を下げようとしない。「広域化すれば、効率化できる」という主張もあるが、これは別に民間企業に限ったことではなく、行政でやればいいだけのことだ。

実際、これまでの民営化(=公有民営)にかんする国際的事例はどうか。まず、水道管の更新投資は、公有民営ではうまくいっていない。他方、運営の効率化については、必ずしも公有民営に軍配が上がっているとは限らず、どちらともいえないというのが、現時点での結論だ。ただ、水道料金が高騰して、いったん民営化した事業をふたたび公営事業に戻している事例が目立っている。

したがって、法律が通ってしまったことはやむを得ないので、都道府県で安易なる民営化が許されないように、監視の目を厳しくすることが大事である。

むしろ、ことの本質は、水道の利用者や職員が激減していることであり、基本的には人口減少の問題だ。農村地帯では、とくにひどい。公営であろうと、民営であろうと、老朽化した水道管を新たにするためには、費用が大きくかさむ。この問題の解決の王道は、私がいつも主張している少子化対策などの人口政策を強力に実行するとともに、地方の居住をある程度、中心的な地域に集中していくように促すことである。

いずれにせよ、水はすべての国民にある程度の価格で届くようにするのが、政治の責任である。

こうした地道な政策を実行しないまま、民営化という辻褄合わせの目先の政策をやめるべきである。

前回に引き続き、外国人労働者の問題を取り上げる。

基本的な立場をもう一度はっきりさせたいと思う。

私は、本来は外国人労働者を増やすことに消極的である。

我が国は、古代までさかのぼらなければ、外国人が本格的に社会に入ってきた経験がない。その結果、我々は世界にも稀なくらい、きわめて同質な社会に住んでいる。同じ共同体の先祖の遺伝子をもち、同じような家庭・学校教育を受け、同じラジオ体操で準備運動をし、同じ遊びやゲームを楽しみ、同じようなテレビ番組、ヒット曲、流行小説、映画、漫画、新聞、週刊誌、ネット情報に影響を受けてきたのである。

こうしたことから、共通の「常識」というか「空気」というものが、社会を漫然と覆っている。よく「八百万の神」とか「共存共栄」とかが日本文化の特徴といわれるが、それはあくまで「空気を読める」人たちに限定されている。「空気を読めない人は、退場願いたい」というのが、我々の本音ではないか。

外国人が多く同じ地域に住めば、「空気」はかなり乱れるだろう。

もちろん、在日の外国人やその子孫、外国で育った方々もいる。また、信念あるいは天然気質で「空気」に反乱を起こしている方々も、探せばいる。しかし、外国に比べれば、その割合はきわめて少ない。

もう1つ私が消極的な理由は、そもそも我々は「国民国家」の中で生活しているということだ。「国民国家」というのは、基本的にはネーション(同一の民族文化=国民)とステイト(国家)が結合している仕組みである。

国際社会は、この「国民国家」を基礎単位としている。内政も、同じような歴史文化と価値観を共有する人たちが、運命共同体の一員として、お互いを支えあうことが前提になっている。近代国家の黎明期に、各国の国語が人工的に統一されたのは、こうした理由からである。社会保障や災害対策に多額の税金が使われても不満が拡がらないのも、同胞だから許されるのである。

多少の例外や虚構はあっても、諸々の国家は、この原理を中心に国民の統合を図っている。逆に、「1つの民族が1つの国家の中核をなす」という前提が崩壊すると、国民国家はバラバラになってしまう。

共通の伝統基盤をもつ欧州各国も、EUが分裂の危機にさらされているように、「国民国家」の意識は意外と根強い。とりわけ島国である日本では、もっともこの統合原理が強く機能している。もともと同質なので、「国民国家」が成立しやすかったのである。

もちろん、米国などは多民族国家とされているが、これはまず特殊な国である。純粋な「国民国家」ではなく、多民族を包摂する帝国の要素をもちあわせた国家である。成り立ちが異なり、日本海と太平洋に守られてきた日本にとっては、ほとんど参考にならない。

現実に、米国では、同じギリシャ・ローマならびにユダヤ・キリスト教の伝統からやってくる外国人は、比較的溶け込みやすい。それでも過去には、短期間に急激に入ってくると大きな軋轢が生じている。中東、アジア、アフリカからの移民となると、ことはそう簡単ではない。こうした多民族を一国の中で統合するために、「自由・平等・民主主義」という「アメリカンドリーム」の物語を浸透させてきたのである。

それでも、米国は、昔日の帝国(オスマントルコ、ビザンチン帝国、モンゴル帝国等)とは異なる。いざという時には、北欧州系の白人が主流をなす「国民国家」の本性をむき出しにするのだ。トランプ現象とは、こうした「本来のアメリカ人」(原住民は「米国の物語」から周縁化されている)の恨みと怒りにみちた、復権への荒々しい叫び声である。

翻って、我が国はどうか。今は想像できなくても、実際に外国人が大量に住み着けば、ほとんどの国民にとって困惑と苦痛にみちた環境変化があるだろう。困惑と苦痛のガスが充満すれば、それに火がついて、憎悪に燃え上がるのは一瞬である。

「自由」「平等」「人権」も、「秩序」の上にはじめて成り立つものである。社会の混乱を招くややこしいことは、できるならば避けるべきである。

とはいっても、労働力人口がかくも劇的に減少するのでは、たしかに背に腹はかえられない。少子化対策は時間がかかるので、このまま放置すれば、企業は人手不足で外国に移るか、倒産するか、どちらかであろう。若者たちの飯のタネを確保しなければいけない。また、豊かで、活力溢れ、外国にも主張できる国でなければ、私たちの生活はおろか文化を守ることもできない。政治は徹頭徹尾、現実的でなければいけない。

しかし、だからこそ、外国人労働者は段階的に、社会秩序を守れるように受け入れなければ、取り返しのつかないことになる。

そういう意味では、今国会で審議されている「入管法改正案」は、はなはだ心もとない。

本法案の目的は、「特定技能」をもつ熟練の外国人労働者を受け入れることである。資格を得た者は、10年間も日本に滞在することができる。本国から家族を呼び寄せることも可能になり、永住への道も開ける。

問題の1つは、「特定技能」をもつ熟練労働者の受け入れが、「技能実習制度」を前提にしていることである。「技能実習生」と、永住するかもしれない「労働者」は、明らかに違うはずである。ところが、政府は「特定技能者の半分から全員が、技能実習生から移ってくる」と答弁している。

技能実習制度では、日本の優れた技能を勉強できると思って来日した方々が、安い賃金で単純労働をさせられている。不満が募り、とても多くの外国人がすでに失踪している。これは人権問題だけではない。国内の治安問題にもつながる。他方、お隣の中国も、これから人手不足の時代に入る。労働者獲得競争がはじまるのに、「日本での扱いはひどい」と悪評を立てられることは避けるべきである。

また、本格的に外国人労働者を受け入れるのであれば、日本語教育や社会常識、日本人の風習や文化慣習をしっかり教える研修も設ける必要がある。こうした研修に数年かけるべきである。この点でも、今の法案はあまりにも不十分だ。

さらに、今後20年間で、労働力人口が1750万人ほど減ると予測されている。安倍晋三首相は、5年間で最大34万人を上限にすると発言しているが、この程度の数では「焼け石に水」である。これは経済成長にかかわる問題であり、将来の見通しと対策を示さなければ、外国人労働者を受け入れても、中途半端な話で終わる。

最後に、労働力人口の減少は人手不足だけでなく、国力の根本問題である。いくら外国人が増えても、彼らは医療・年金・介護の保険料を払う必要がなく、社会保障の財政は依然として厳しい。また、外国人は自衛隊に入らない。今後想定される入隊率の低下をどうするのか。

やはり、時間がかかっても、地道に日本国民を増やすことは避けられないはずである。

野党も反対だけでなく、少なくとも以下の論点について、早急に方向性を提案して、国民的議論に貢献すべきである。

1)基本的な人口政策の方針を立てて、強力な少子化対策や非正規雇用の規制により、子供を産みやすく、育てやすくする環境を整備すること。

2)職業訓練学校の強化により、「手に職」を得るような教育を充実。今の教育は一般事務職系の社会人を輩出することに偏していて、これが一部の分野の「人手不足」につながっている。

3)技能実習制度という誤魔化しの制度を止めて、労働者の人権保障も含めた、堂々と外国人労働者を受け入れるための法整備。

4)とりわけ日本国民と共存共栄できるための教育を施す研修制度の創設。留学生などすでに日本に馴染んでいる外国人を優先的に対象とすべきである。

5)単純労働者だけでなく、大学の教授、研究者、技術者、芸術家、経営者などを積極的に招くことが重要である。

以上、外国人労働者の受け入れは、我が国の社会のみならず「国民国家」にも大きな影響を与える課題であり、社会実験は許されない。あらゆる角度から議論を深めるべきである。