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家族を支えることが、国民国家を支える

我が国経済の将来展望に暗雲がかかっている。

数回にかけて、自分なりの処方箋のあらましを書き記す。

大雑把には、前回のブログでも訴えた通り、「国民が将来の成長に希望をもてるように、労働力人口を増やし、技術革新を活性化する具体策を実行すること」が重要だ。

今回は、日本の成長率のもっとも重たい足かせとなっている労働力人口(15歳から64歳の人口)の減少をどう最小限にとどめるか、ということに焦点をしぼりたい。

そもそも労働力人口を増やす政策には、次のような選択肢しかない。

1)女性、お年寄りの社会参加を促す。

2)日本国民=人口を増やす(少子化対策)。

3)外国人労働者を増やす。

これ以外に、労働力人口を増やすことに直結はしないが、労働力・人手不足を補うため4)人工知能(ロボットなど)の活用もある。また、消費を増やすだけの観点からいえば、5)観光政策もある。

基本的にすべてやればいいのだが、安倍政権では1)にあたる「一億総活躍」や、5)の観光政策をすでに推進している。ただ、内閣府の試算では、「女性の社会参画先進国」として知られるスウェーデン並の女性労働力比率にしたとしても、また、退職年齢を75歳に引上げても、残念ながら全体の労働力人口の減少には微々たる効果しかないという。

また、同政権では、3)の外国人労働者の導入も中途半端な形で実行しはじめているが、これは私自身きわめて慎重な立場だ(以前のブログを参照)。百歩譲って、安倍総理が宣言しているように34万人の外国人を入れたと仮定しても、30年後にはもっとも労働力人口が多い時よりも約2700万人も減ってしまう。ほとんど「焼け石に水」なのである。

つまり、今の政権が推進している政策の方向性は間違っていないかもしれないが、これだけでは全然足りないのだ。

そこで、時間とお金がかかり、地道で大変かもしれないが、私はやはり、2)の日本国民=人口を増やす政策を絶対にやらなければいけないと考えている。女性が一生のうちに産む子供の数(=出生率)を今の1.4から2.0まで引き上げるのに、20年以上かかる。そこから人口そのものに影響を与えるのには、さらに時間がかかる。当然、少子化対策には長い時間を要し、即効性は求められない。

「もう遅い」という声もあろうが、それでもやるべきである。

やらなければ、よほど人工知能がうまく普及しないかぎり、何百万人の外国人労働者に未来永劫頼らないといけないのだ。「外国人も嫌だ」というのであれば、経済はマイナス成長に衰退していくまでである。「良いとこどり」は許されないのである。

古代より常に一流の国民国家としてつづいてきた日本国を、今後も豊かで平和な形で残さなければいけない。まさしくそれが政治の仕事である。愛国心とは、先人が残してくれたこの立派な国を、今生きている人たちのためだけでなく、いくら時間がかかっても、子々孫々に継承することである。

そもそも少子化の原因で一番大きいのは、やはり経済的な理由である。例えば、内閣府の平成26年の調査によると、

1)「結婚の障害」として、男女ともに「結婚資金」という理由が最大である。

2)すべての年齢層において、非正規雇用者の結婚率が低い。

3)「理想の子供の数」が「二人以上」と答えた人は6割以上もあるが、これを実現できない最大の理由として「子育て費用」があげられている。

こうしたことから、非正規雇用に対する規制を強化することや、ただ何となく大学に行く風習を改めて職業訓練学校を強化し、「手に職」をもつ若者を輩出することも大事であると考えている。

まず今回は、少子化対策としての「家族支援」について詳細に述べる。

「家族支援」というのは、国の予算等により、家族を支援するための現金支援またはサービスの提供のことだ。具体的には、出産扶助、児童手当、保育所運営費、社会福祉(児童扶養手当など)、育児休業給付、就学援助のことである。日本では「子供手当」、「教育無償化」、「保育料の無料化」などの言葉でおなじみだろう。

「家族支援」の国際比較をすれば、先進国の中でも、日本の予算規模は非常に小さい。GDP比でいえば、我が国が1.25%、英国が3.76%、フランスが2.85%、スウェーデンが3.46%、ドイツが2.17%である。もっとも「小さな政府」を標榜する米国は0.72%と低いので、この比較自体に意味があるわけではない。

むしろ、注目すべきなのは、「家族支援」の充実しているフランスやスウェーデンでは、出生率が1.5~1.6台まで低下した後、この政策によって目立って回復していることである。直近では、フランスの出生率が1.98(2014年)、スウェーデンの出生率が1.88(2014年)となっているのだ。

我が国の出生率は、2005年に史上最低の1.4まで落ち込んでから、じわじわと回復して1.4まできている。しかし、「道はまだまだ遠し」である。

効果のある「家族支援」を実行するために最大の障害になるのは、予算の財源を確保することである。1994年の「エンゼルプラン」から、政府が少子化対策を打ってきているが、ほとんど効果が出なかったのは、基本的には予算規模が小さすぎるのである。

では、どのくらいの予算が必要なのか。

今、日本政府は5.5兆円ほどの予算を「家族支援」に使っている。これをフランス並みの水準に増やすためには、今よりもざっと7兆円ほど追加しなければならない。総額12.5兆円が必要である。

この巨額の財源をどうするのか。

私は一つの財源に頼らずに、1)超長期国債=2兆円と、2)税金の組合せ=5兆円により確保すべきだと考える。当然、これらの財源は「家族支援」にしか使えないものとして、法律でしばりをかける(「特定財源化」)こととする。

1)の超長期国債については、「家族債」として50年後に返済するものを発行する。というのも、「家族支援」で子供が増えて、彼らが20年後には仕事をもって税金を納めることになる。出生率が上がるのに20〜30年間かかることを踏まえれば、50年後に「家族支援」により増えた労働力(ひいては税収)で、借金を返すという発想である。この際、永久国債(利払いのみで、元本を返す必要ない借金)や無利子国債(利払いはしなくても良い借金)についてもあわせて検討すべきである。

超長期国債で年間2兆円を財源として確保するのと同時に、残り5兆円については増税をお願いする。すなわち、1)消費税1%=2.5兆円、2)法人税+所得税=両税あわせて2.5兆円分。とりわけ法人税や所得税の中身については、次回詳しく説明したい。

当然、まずは、国会議員の数を減らすことや、行政改革などの「ムダ使い」にメスを入れなければいけない。ただし、これらの財政的な効果はそれほど大きくない。国会議員をすべてクビにしても約800億円強の捻出しかできない。国家公務員の人件費も、自衛隊を除けば、3兆円強である。

それでも、こうした「身を切る改革」を断行すべきであるが、いずれにせよ、国民の皆さんにどうしても負担をお願いしなければいけないのである。

大事なのは、借金と三大基幹税(所得税・消費税・法人税)の組合せにより、今生きている国民の幅広い層と、我々の子々孫々とが、それぞれ負担を分かち合うということである。

また、増税をする際には、当然、景気状況を踏まえる必要があるが、一方で「家族支援」による7兆円のかなりの部分が消費に回ることの景気効果も注目すべきである。

ここ数年、戦後最長の景気回復といわれても、個人消費がなかなか増えない理由には、大企業が空前の利益を上げながらも、内部留保を増やすだけで、賃上げに回されていないことが挙げられる。「賃金上昇→消費増」という好循環が働いていないのだ。「家族支援」の法人課税や高額所得者への所得税強化により、大企業やお金持ちから、もっと消費をする階層にお金を流すことで、回り回って企業にも富が循環するのである。

最近、厚生労働省による賃金構造基本統計の不正問題が発生し、厚労大臣は実質賃金がマイナスで推移してきたことを認めた。名目賃金のほうは、リーマンショックの時から水準は下がっているものの、ずっとプラスで推移している。ところが、物価上昇を加味し生活実感に近い数値である実質賃金は、ここ数年マイナスで推移しているのだ。いくら名目の賃金が上昇しても、物価上昇がこれを上回っている分、実質マイナスなのである。

とりわけアベノミクスは「デフレ脱却」を目標としている経済政策である。一般的に「デフレ脱却」とは、不景気から「脱却する」ことだと思われている嫌いがある。しかし、実際、「デフレ脱却」というのは、インフレ(=持続的な物価上昇)を引き起こすことであり、異常な金融緩和もこのためになされている(アベノミクスの目標は、毎年2%のインフレである)。

つまり、力づくで、無理やり物価を引上げている政策なのだ。

ところが、仮に物価を上げることが良いことだとしても(私は必ずしもそう思っていない)、生活者にとっては、賃金が増えず、物価だけ上がったとしたら、それは迷惑な話であり、消費が伸びないのも当然である。

大体、個人消費はGDPの6割以上を占めていて、景気を左右する最大の項目だ。また、企業や投資家ではなく、一般生活者の「豊かさ」を示すもっとも明確な指標でもある。これが盛り上がらないのが、「実感できる景気回復」とならない一番の障害である。

こうしたことから「家族支援」は、長期の人口を維持するだけでなく、短期的な景気にも貢献するものである。

いずれにせよ、こうした借金・増税は、それなりの負担を国民にお願いすることになり、誠に心苦しいが、本格的な「家族支援」を強力に実施しなければ、経済成長が年々下がることを避けられない。今後20年間のうちに、企業は人手不足で倒産したり、あるいは、海外に移転することになれば、地元や国内で就職することが厳しくなっていく。みんなで力をあわせて、こうした若い世代の「飯のタネ」を確保すべきではないでしょうか。

それだけではなく、若い世代の人口が劇的に減少することは、お年寄りのための社会保障、農村地域の国土保全、国家の防衛力もほぼ必然的に弱体化するということである。

早急に、国力増強のための「家族支援」を真剣に検討すべきである。

日本経済の診断書

迎春。本年も引き続きよろしくお願いします。

昨年に引き続き、今年の金融・経済は波乱含みになるだろう。米国の成長が失速していくことはほぼ確実であり、株式市場の乱高下はこれを反映している。消費税増税をどうするかをはじめ、政府と日本銀行は、それなりの対応策を検討すべきである。

他方で、ここ数年間、我が国は大企業が未曾有の利益を捻出し、失業率も低い。戦後、最長の好景気である。これはこれで結構なことだが、問題は成長率そのものがそれほど高くないことだ。もっと深刻なのは、今後もさらに成長率が下がっていくことである。

リーマンショック回復後の実質GDPの平均成長率(2013年から2017年)は1.3%である。平均すれば、私たちの所得が毎年1.3%ずつ伸びてきたのだ。これは、リーマンショック震源地の欧米に比べても低い。米国の同時期の平均成長率は2.2%、英国は2.3%、ドイツは1.7%である。

近い将来はどう予測されているか。国際通貨基金(IMF)の見通しでは、

(日本の実質GDP前年比の予測)

2018年 1.1%

2019年 0.9%

2020年 0.3%

2021年 0.7%

2022年 0.5%

2023年 0.5%

となっている。来年からゼロ%台の極めて低い成長の時代に突入である。他方、英米、ドイツは、少なくとも毎年1%以上は成長していくと予想されている。

では、遠い将来はどうか。同じIMFの見通しでは、「日本は人口減により、今後40年で実質GDPが25%以上減少しかねない」と警告を鳴らしている。つまり、アベノミクスなどいくら続けても、国民の所得が年々ひたすら目減りして、40年後には今の1/4も減るということである。

日銀や内閣府が試算する潜在成長率(=中長期的に実現可能な成長率)も、同じような傾向を示している。80年代後半の4%を頂点とし、90年代からずっと下降し、現時点ではゼロ%台であり、このまま将来マイナス成長になる可能性が高い。

もちろん「GDPは人の幸せと関係ない」という方もいると思う。しかし、GDP=国民の所得である。これが力強く伸びて、物質的に豊かな生活を確保するのは当たり前ではないか。そうしなければ、あまりにも将来世代が気の毒である。芸術であろうと、スポーツであろうと、趣味であろうと、どんな夢を追求するにも、資金が潤沢にあればあるほど良いに決まっている。

もっといえば、一人一人の生活水準も大事だが、力強い経済は国全体の国力にもつながる。国力という言葉は曖昧かもしれないが、通常、次のように定義される。

国力=((人口+領土)+経済力+軍事力)×(戦略目的+国家意思)

外交防衛も究極は、国民の生活を守るための機能である。外国との交渉の勝敗は、基本的にはこの国力によるのである。上の定義にある「経済力」は、一人当たりの経済力でなく、国全体の経済規模を指すのである。

さらに、社会保障、地方再生、農林業政策、中小企業政策、防衛、教育などの国家予算を確保するための税収の水準も、全体の成長率によって決まる。低い成長率であればあるほど、税収も減り、必要な政策を打つための財源がなくなるのだ。医療・年金・介護の水準も、一定の成長率が前提となっている。

では、経済成長率は何で決まるのか。それは、次の三つのエンジンである。

①    生産に必要な機械等の設備(=資本投入量)

②    労働力人口(=15歳から64歳の人口)

③    技術革新(=生産性をあげるための新技術)

これらは短期でなく、中長期の経済の基礎体力にかかわってくる。

短期の景気は、世界経済、オリンピックのような特需、公共事業、株価、為替、災害などによって上下に振れる。アベノミクスの円安対策ならびに株価吊り上げ対策も、当然、短期的な効果はあった。これも軽視してはいけないが、本当の問題は、為替や株価ではなく、経済の基礎体力がこの20年間弱ってきていて、今後も、さらに弱っていくことである。

具体的には、上の三つのエンジンのうち、①の労働力人口が激減していることと、③の技術革新が弱まっていることが大きい。

他方で、①の資本投入量については、無人化に向けた設備投資を中心に増えてはいる。しかし、②と③の問題で国内の市場がさらに縮小する中で、経営者は本格的な設備投資を躊躇せざるを得ないだろう。

ここで、政治家がやらなければいけないことは明確である。国民が将来の成長に希望をもてるように、②の労働力人口を増やし、③の技術革新を活性化する具体策を実行することである。そうすれば、企業も①の設備投資(や賃上げ)をしやすくなるはずであり、成長に必要な三つのエンジンに手当をすることができるのである。

それは、リハビリのように時間がかかる地道な作業だが、国力ある国家を次世代に残すためには、避けて通れない道である。

今回は、私なりの経済の診断書を示した。次回は処方箋について書きたいと思う。

水と民営化は「水と油」

水道民営化の法案が、先の臨時国会で強行採決された。これを受けて、報道や国民の皆さんから、「これで水道が民営化されて、料金の値上げがはじまるのではないか」と不安の声が上がっている。

結論からいえば、1)水の民営化は避けるべきであるが、2)報道で煽っているほど今回の法律改正ですぐ困ることもない、といったところだ。

まず、はっきりさせないといけないのが、政府は「本法案は民営化ではなく、水道の運営だけを企業に任せるコンセッション方式だ」と強弁していること。政府がなんと言おうと、コンセッションが民営化の一手法であるのは、世界的な常識だ。入管法議論の際の「移民」という言葉もそうだったが、つまらない言葉遊びはやめるべきである。

さて、そもそも水は食料と同様、生命に不可欠である。政治のもっとも重要な仕事は、国民の「食」を確保することである。これは「効率」を超えた責任である。もちろん、効率よく、水を安く安定的に国民全員に供給できるのであれば、なおさら望ましい。

今回の「水道法」の改正は、公的部門が水道管等を所有したまま、水の事業運営だけを民間に委託することを可能にするものだ(民有民営ではなく、公有民営)。ただ、民営化のためには、都道府県の許可が前提となる。したがって、例えば、京都府が認めなければ、民営化は京都では実行されない。法律が成立したからといって、自動的に全国の水が民営化になるわけではないのである。

問題は、何のために安倍政権は民営化を推進するのか。政府の説明によると、「1)人口減少にともない、水の利用者と水道事業の職員数が減る中で、2)老朽化する水道管の更新投資のためのお金と人が足りなくなるので、民間の力を借りる。」ということらしい。

しかし、問題は二つある。

まず、第一に、民間が運営したからといって、老朽化した水道管の更新がより進むのか。これは逆だ、と言わざるを得ない。通常、設備投資をする際、行政の方が民間よりも借り入れ費用が安い。また、水事業に限らず、事業を民営化すれば、企業はできるだけ費用を抑えて、利益を増やすために、投資をおろそかにするのが常識である。そもそも民間企業では、水道投資コストが高すぎて負担できないからこそ、公営事業として成立したのである。今後の更新投資の巨額の負担についても、民間で担うのはむしろ難しい。

もう一つの問題は、「民間の方が効率的に運営できる」という単純な主張だ。これは一般論としては、なんとなく通用するかもしれないが、水道事業について答えは必ずしもはっきりしていない。なぜなら、水道事業はほとんど競争原理が働かないからだ。また、水は生活必需品である。料金が高騰しても、消費者は水を購入せざるを得ないので、企業は価格を下げようとしない。「広域化すれば、効率化できる」という主張もあるが、これは別に民間企業に限ったことではなく、行政でやればいいだけのことだ。

実際、これまでの民営化(=公有民営)にかんする国際的事例はどうか。まず、水道管の更新投資は、公有民営ではうまくいっていない。他方、運営の効率化については、必ずしも公有民営に軍配が上がっているとは限らず、どちらともいえないというのが、現時点での結論だ。ただ、水道料金が高騰して、いったん民営化した事業をふたたび公営事業に戻している事例が目立っている。

したがって、法律が通ってしまったことはやむを得ないので、都道府県で安易なる民営化が許されないように、監視の目を厳しくすることが大事である。

むしろ、ことの本質は、水道の利用者や職員が激減していることであり、基本的には人口減少の問題だ。農村地帯では、とくにひどい。公営であろうと、民営であろうと、老朽化した水道管を新たにするためには、費用が大きくかさむ。この問題の解決の王道は、私がいつも主張している少子化対策などの人口政策を強力に実行するとともに、地方の居住をある程度、中心的な地域に集中していくように促すことである。

いずれにせよ、水はすべての国民にある程度の価格で届くようにするのが、政治の責任である。

こうした地道な政策を実行しないまま、民営化という辻褄合わせの目先の政策をやめるべきである。

『人が足りないから外国人を入れる』という安易な発想に異議を申す

前回に引き続き、外国人労働者の問題を取り上げる。

基本的な立場をもう一度はっきりさせたいと思う。

私は、本来は外国人労働者を増やすことに消極的である。

我が国は、古代までさかのぼらなければ、外国人が本格的に社会に入ってきた経験がない。その結果、我々は世界にも稀なくらい、きわめて同質な社会に住んでいる。同じ共同体の先祖の遺伝子をもち、同じような家庭・学校教育を受け、同じラジオ体操で準備運動をし、同じ遊びやゲームを楽しみ、同じようなテレビ番組、ヒット曲、流行小説、映画、漫画、新聞、週刊誌、ネット情報に影響を受けてきたのである。

こうしたことから、共通の「常識」というか「空気」というものが、社会を漫然と覆っている。よく「八百万の神」とか「共存共栄」とかが日本文化の特徴といわれるが、それはあくまで「空気を読める」人たちに限定されている。「空気を読めない人は、退場願いたい」というのが、我々の本音ではないか。

外国人が多く同じ地域に住めば、「空気」はかなり乱れるだろう。

もちろん、在日の外国人やその子孫、外国で育った方々もいる。また、信念あるいは天然気質で「空気」に反乱を起こしている方々も、探せばいる。しかし、外国に比べれば、その割合はきわめて少ない。

もう1つ私が消極的な理由は、そもそも我々は「国民国家」の中で生活しているということだ。「国民国家」というのは、基本的にはネーション(同一の民族文化=国民)とステイト(国家)が結合している仕組みである。

国際社会は、この「国民国家」を基礎単位としている。内政も、同じような歴史文化と価値観を共有する人たちが、運命共同体の一員として、お互いを支えあうことが前提になっている。近代国家の黎明期に、各国の国語が人工的に統一されたのは、こうした理由からである。社会保障や災害対策に多額の税金が使われても不満が拡がらないのも、同胞だから許されるのである。

多少の例外や虚構はあっても、諸々の国家は、この原理を中心に国民の統合を図っている。逆に、「1つの民族が1つの国家の中核をなす」という前提が崩壊すると、国民国家はバラバラになってしまう。

共通の伝統基盤をもつ欧州各国も、EUが分裂の危機にさらされているように、「国民国家」の意識は意外と根強い。とりわけ島国である日本では、もっともこの統合原理が強く機能している。もともと同質なので、「国民国家」が成立しやすかったのである。

もちろん、米国などは多民族国家とされているが、これはまず特殊な国である。純粋な「国民国家」ではなく、多民族を包摂する帝国の要素をもちあわせた国家である。成り立ちが異なり、日本海と太平洋に守られてきた日本にとっては、ほとんど参考にならない。

現実に、米国では、同じギリシャ・ローマならびにユダヤ・キリスト教の伝統からやってくる外国人は、比較的溶け込みやすい。それでも過去には、短期間に急激に入ってくると大きな軋轢が生じている。中東、アジア、アフリカからの移民となると、ことはそう簡単ではない。こうした多民族を一国の中で統合するために、「自由・平等・民主主義」という「アメリカンドリーム」の物語を浸透させてきたのである。

それでも、米国は、昔日の帝国(オスマントルコ、ビザンチン帝国、モンゴル帝国等)とは異なる。いざという時には、北欧州系の白人が主流をなす「国民国家」の本性をむき出しにするのだ。トランプ現象とは、こうした「本来のアメリカ人」(原住民は「米国の物語」から周縁化されている)の恨みと怒りにみちた、復権への荒々しい叫び声である。

翻って、我が国はどうか。今は想像できなくても、実際に外国人が大量に住み着けば、ほとんどの国民にとって困惑と苦痛にみちた環境変化があるだろう。困惑と苦痛のガスが充満すれば、それに火がついて、憎悪に燃え上がるのは一瞬である。

「自由」「平等」「人権」も、「秩序」の上にはじめて成り立つものである。社会の混乱を招くややこしいことは、できるならば避けるべきである。

とはいっても、労働力人口がかくも劇的に減少するのでは、たしかに背に腹はかえられない。少子化対策は時間がかかるので、このまま放置すれば、企業は人手不足で外国に移るか、倒産するか、どちらかであろう。若者たちの飯のタネを確保しなければいけない。また、豊かで、活力溢れ、外国にも主張できる国でなければ、私たちの生活はおろか文化を守ることもできない。政治は徹頭徹尾、現実的でなければいけない。

しかし、だからこそ、外国人労働者は段階的に、社会秩序を守れるように受け入れなければ、取り返しのつかないことになる。

そういう意味では、今国会で審議されている「入管法改正案」は、はなはだ心もとない。

本法案の目的は、「特定技能」をもつ熟練の外国人労働者を受け入れることである。資格を得た者は、10年間も日本に滞在することができる。本国から家族を呼び寄せることも可能になり、永住への道も開ける。

問題の1つは、「特定技能」をもつ熟練労働者の受け入れが、「技能実習制度」を前提にしていることである。「技能実習生」と、永住するかもしれない「労働者」は、明らかに違うはずである。ところが、政府は「特定技能者の半分から全員が、技能実習生から移ってくる」と答弁している。

技能実習制度では、日本の優れた技能を勉強できると思って来日した方々が、安い賃金で単純労働をさせられている。不満が募り、とても多くの外国人がすでに失踪している。これは人権問題だけではない。国内の治安問題にもつながる。他方、お隣の中国も、これから人手不足の時代に入る。労働者獲得競争がはじまるのに、「日本での扱いはひどい」と悪評を立てられることは避けるべきである。

また、本格的に外国人労働者を受け入れるのであれば、日本語教育や社会常識、日本人の風習や文化慣習をしっかり教える研修も設ける必要がある。こうした研修に数年かけるべきである。この点でも、今の法案はあまりにも不十分だ。

さらに、今後20年間で、労働力人口が1750万人ほど減ると予測されている。安倍晋三首相は、5年間で最大34万人を上限にすると発言しているが、この程度の数では「焼け石に水」である。これは経済成長にかかわる問題であり、将来の見通しと対策を示さなければ、外国人労働者を受け入れても、中途半端な話で終わる。

最後に、労働力人口の減少は人手不足だけでなく、国力の根本問題である。いくら外国人が増えても、彼らは医療・年金・介護の保険料を払う必要がなく、社会保障の財政は依然として厳しい。また、外国人は自衛隊に入らない。今後想定される入隊率の低下をどうするのか。

やはり、時間がかかっても、地道に日本国民を増やすことは避けられないはずである。

野党も反対だけでなく、少なくとも以下の論点について、早急に方向性を提案して、国民的議論に貢献すべきである。

1)基本的な人口政策の方針を立てて、強力な少子化対策や非正規雇用の規制により、子供を産みやすく、育てやすくする環境を整備すること。

2)職業訓練学校の強化により、「手に職」を得るような教育を充実。今の教育は一般事務職系の社会人を輩出することに偏していて、これが一部の分野の「人手不足」につながっている。

3)技能実習制度という誤魔化しの制度を止めて、労働者の人権保障も含めた、堂々と外国人労働者を受け入れるための法整備。

4)とりわけ日本国民と共存共栄できるための教育を施す研修制度の創設。留学生などすでに日本に馴染んでいる外国人を優先的に対象とすべきである。

5)単純労働者だけでなく、大学の教授、研究者、技術者、芸術家、経営者などを積極的に招くことが重要である。

以上、外国人労働者の受け入れは、我が国の社会のみならず「国民国家」にも大きな影響を与える課題であり、社会実験は許されない。あらゆる角度から議論を深めるべきである。

「外国人労働者よりも、日本民族を増やすべし」

安倍政権は「移民ではない」と弁明しているので、あえてその言葉は使わないが、「外国人労働者を初年度で4万人増やす」ための法案が今臨時国会で議論されている。

私は、まず、外国人労働者を増やすことに消極的である。しかし、政治が本格的な少子化対策をずっと怠ってきた以上は、企業の人手不足を解消するためにはやむを得ないだろう。ただし、治安問題にならないよう、候補者の犯罪歴、テロに加担する可能性などを徹底的に調査すべきである。日本語、日本の社会常識、文化慣習なども教える必要がある。何年かかっても、厳格な研修を通してからでなければ就労を認めるべきではない。

簡単にいえば、「技能研修」という建前はもはや崩れているので、外国人労働者として認めた上で、そのための当然の環境整備を急がなければいけない。

たとえ外国人労働者を積極的に入れる立場であっても、「急がば回れ」である。現時点で、日本は魅力的な市場かもしれないが、近い将来、中国が人手不足で外国人労働者を大量に受け入れることになるだろう。つまり、外国人労働者の奪い合いの時代が到来するのである。日本的な「タテマエとホンネ」が通じない外国人に「技能研修」と宣伝しながら、その実態が低賃金労働であることは、すでに外国で評判が悪い。憲法第9条の平和主義もそうであるが、日本人にしか通じない言葉遊びは、外国人には欺瞞としか映らない。

もっとも重要なことは、日本民族を可能な限り増やすことが、基本であるということである。残念ながら、このための実効力ある政策は、議論すらされていない。現在の少子化対策、1億総活躍の政策は、「焼け石に水」に過ぎない。

たしかに、企業の人手不足だけを解消するのであれば、外国人で補充することで済むのかもしれない。しかし、我が国の医療・年金・介護が、少子高齢化によって論理必然的に財政破綻することに対し、保険料を払わない外国人はまったく役に立たない。また、自衛隊の入隊数が現役世代の人口減少とともに減るという防衛上の問題についても、外国人を増やすことは解決策にならない。

さらに、国土交通省の「国土のグランドデザイン」(2014年)では、日本列島を1平方キロメートルごとに区切って、人口の増減を見通している。この分析によると、30年後、現時点で人が住んでいる約18万地点のうち、63%で人口が半分以下になる。その3分の1にあたる19%の地点では、無人の地域になる。同省の「『国土の長期展望』中間とりまとめ」(2011年)によると、30年後には、我が国の離島の1割が無人島になる。これは、「技能研修生」をちょっと増やすことでは解決できない、国土保全の問題でもあり、危機管理ならびに防衛上の課題である。

繰り返すが、日本民族が増えることは国力増強の大前提である。

いずれにせよ、我が国の労働力人口(15歳から64歳)は、この20年間で約1000万人も減っている。しかも、これで終わらない。今後20年でさらに1700万人程度減ると予測されている。これを埋めるために、一体どのくらいの外国人を入れるつもりなのだろうか。

「入管難民法」の改正が、国家国民の本当の課題からして、一時の間に合わせに過ぎないのは、火を見るより明らかである。

「ふたたび世界不況か?」

第一回のブログで、西郷隆盛の言葉「政の大体は、文を興し、武を振ひ、農を励ますの三つに在り」を引用した。

この言葉に最初に触れたのは、学生時代に「南洲翁遺訓」を読んだときだったが、今になって、「これは実に国家運営の基本を示しているなあ」と痛感している。

戦後の日本は、「農を励ます」ことに力を注いだ。農業自体は軽視されたが、西郷の時代の「農」は今でいう産業と解釈すべきである。偏った形であるが、少なくとも産業振興を目的に「文」もそれなりに興してきた。武の方は、米国からの要求に応じ、あるいは、応じるふりをして自衛隊を創設し、防衛政策もより積極的になった。それでも「自分の国は、自分の国でも守る」という、地域の消防分団でも当然とされる精神は、米国の圧倒的な軍事的保護を前提にしてしか、語られなかった。

私が、学生時代に政治を志した頃は、バブル絶頂期であったので、自分の関心は「武」にかなり集中した。「文」の方は、人格教育や愛国心育成が足りないという意味で、問題意識はあった。しかし、バブルが崩壊し、人口が減少し、技術革新が振るわなくなった今となっては、「文」「武」「農」の根本を立て直さなければいけない時代に入った、と確信している。

一言でいえば「国力増強」をしなければいけないのである。

心ある人たちは、これを当然だと思っているかもしれない。しかし、まだ危機感は足りない。また、数年に一度、国民に成績表を突きつけられる政治家は、どうしてもその時々の世論の変化に左右されざるを得ない。その結果、目先の政策ばかり訴えてしまう。より安定的な職にある官僚の中には、長期の根本課題を憂えても、「右顧左眄する政治家に取り上げてもらえない」と押し黙ってしまっている。

現状は、1)「百年に一度の危機」といわれたリーマンショックと東日本大震災からの回復、2)世界景気の同じ頃からの持続的好調、3)アベノミクスの金融(とくに為替)・財政の刺激により、なんとなく日本の国力が回復している印象をもっている人すらいる。また、不安になればなるほど、楽観的な予想に飢えるので、いくら問題を指摘しても「危機をいたずらに煽る」と袋叩きにあう。

何ごとも「機をみる」のが大事であり、ただ「正しい」ことを言っていてもしょうがない。とくに政治はそうである。私は愚かなので、ずっとこうした訴えをつづけてきたが、自分の思いが時代の主調にならないことも、やむを得ないと考えてきた。

しかし、ここのところ機運が変わりつつあるように思う。

国内経済の回復は、弱った基礎体力(人口、技術革新)からもはや限界にきている。世界経済も、今や調子いいのは米国だけだが、その大統領が世界経済を不安定にするような一方的な通商政策を実行しはじめている。さらに、我が国の金融・財政政策も、すべての政府主導の景気対策がそうであるように、刹那の効果しかない。もっとも救済的だった円安政策も、とうとうトランプ大統領に公式に批判されるようになった。これまでの経験からして、日本単独で為替水準を決めることはできない。米国の少なくとも黙認がなければ為替水準は成立しないので、円安政策の恩恵を受けつづけられるのが難しくなってきている。

世界経済の崩壊について、数ヶ月前から、各国の識者が警鐘を鳴らしはじめている。とくに、リーマンショックの頃と違って、各国とも財政の蔵が空っぽであり、お金も最大限に放出しているので、さらなる刺激手段が厳しい。米国の中央銀行が、大統領からの圧力にもかかわらず、賢明に、また懸命に、金利上昇を断行しているのは、こうした事態に備えて、金融の武器を充填しているのである。

国民の意思がなければ、政治は無力である。近いうちに世界経済の歯車が狂い、我が国のモルヒネ効果が切れる可能性が高まっている。禁断症状に苦しみながら、日本の国力の老化した、弱々しい、裸の姿が明確に浮かびあがるだろう。そこから、である。国民国家一体となって、「文」「武」「農」をふくむ国力増強に邁進しなければならない。

天運があれば、私もこうした流れに参画していきたい。

「自分の足で立つ国を目指して」

政治は、昔から集団を束ねて、その生活を守るために権力を用いることを意味しました。もちろん、悪政の例もたくさんありました。しかし、どこの国や地域でも、政治が理想として目指してきたのは、生活の安定です。「政治」の「政」は軍事的に支配をし、秩序をもたらすという意味です。「治」は、治山治水の「治」でして、古代より人々の生活をもっとも脅かした自然災害に対し、権力者にしかできなかったことは、河川の整備や山の荒廃を防ぐこと、土砂崩れを防止することだったのです。

さらに、外国に対して自国を防衛するのも政治の本質です。論語にもあるように、孔子の弟子の子貢が政(まつりごと)とは何かと問うて、孔子は「食を足し、兵を足し、民之を信にす」と答えています。 幾星霜を経て、大西郷曰く。「政の大体は、文を興し、武を振ひ、農を励ますの三つに在り。其他百般の事務は、皆此の三つの物を助るの具也。此の三つの物の中に於て、時に従ひ勢に因り、施行先後の順序は有れど、此の三つの物を後にして、他を先にするは更に無し。」

政治の要諦は、教育文化、軍事力、農業を含めた産業を強化することにあり、ということです。

時代が現代に移り、西欧の啓蒙主義が広く行き渡り、科学技術が進み、行政の役割も広がりました。今や国民の生活の細部にまで政治が入り込んで、個人の思想信条の自由、言論の自由を守ることから、医療・年金・介護、障害者支援、ゴミ処理、インフラ整備、環境問題にまで及ぶようになりました。

しかし、これらも最終的には、国民の生活の安定を図ることを目的としています。

これらは、どこの国の政治にも通用する基本中の基本です。

ただ、人それぞれに個性があり、志があるように、それぞれの国の政治にも個性があり、志があります。それは、勝手に誰かがでっちあげるものではなく、その民族や国民の歴史体験によって形づくられるものです。

我が国は、古来よりアジア大陸からの文化的な、あるいは、軍事的な挑戦に立ち向かって、自分たちの独自の文明文化を形成し、外国からの支配を拒否してきました。その志は、中国に対等の関係を宣言した、聖徳太子の「日いづる天子、日没する天子に書を致す」という言葉にあざやかに示されています。もちろん、時には、妥協したこともあります。また、時には、この理想を貫くことができなかったこともあります。しかしながら、たえず大国に囲まれてきた我が国は、その独立と独自の文明文化を守る志を燃やしてきたのです。

さらに、維新からわずか50年も経たないうちに、日本政府は、パリ講和会議において「人種差別撤廃」を宣言しました。米国における排日の運動を念頭に、世界の紛争の原因が、西欧列強の植民地主義にあり、その背景に有色人種に対する差別偏見があったことを鋭く指摘したのです。そして、こうした差別を無くして、共存共栄の世界を築くべきだ、という旗を掲げました。

これは日本史上初の世界構想につながる理想でした。聖徳太子の一国自主独立のみならず、世界的視野に立って、どの国でもそうした権利を認めるべきであることを主張したのです。

もちろん、我が国は必ずしも、自分たちの理想にふさわしい行動をとってきたわけではありません。これはこれで、素直に認めるべきです。しかし、至らなかったことがあったからといって、我々の志が無意味になったとは考えるべきではありません。志というのは、そんなに簡単に捨て去られるべきものではありません。本物の志は、挫折につぐ挫折、幻滅につぐ幻滅を経て、さらにその輝きがなおまばゆく、なお熱を帯びてくるものであります。

ふたたび大西郷の言葉を引用すれば「幾たびか辛酸を経て、志いよいよ堅し」です。

戦後の日本は、これもまた国史上初の本格的な敗戦と米国による占領を経験しました。以降、外交防衛の大半また通商経済の相当部分を米国に頼る時代に入ります。米国は、露骨な支配をしませんでしたが、我が国の浅知恵と無防備と怠慢もあり、結果としては、現在かなり米国に依存をせざるを得ない状況にあります。この間の米朝会談は、これを裏づけています。

先の大戦に疲れ切った国民の大半、政治家のほとんどは、米国にボディガードを任せながら、経済成長を図ることを選択しました。あるいは、これをしたたかな政策と自負していた人もいたでしょう。しかし、ながらく自分の足で立たない生活がつづくと、足腰が弱ります。中国の春秋戦国時代で、衛星国が大国に依存した結末を教訓として、白川静先生が現代日本に対する感想を述べています。「日本のような状態は「附庸」というんです。属国のことですね。大きな国にちょこんとくっついている。これを「附庸」という。養分だけとられて独立していないと言うことです。そういうことが、中国の古典を読むとわかるようになります。」

アメリカの「米国第一主義」の外交がつづけばつづくほど、いかに我が国の養分が吸い取られてしまったかが、火を見るよりも明らかになってくるでしょう。トランプ大統領のポピュリズムは一時的な現象かもしれませんが、自分の国益だけを追求するという「孤立主義」は米国の建国精神でもあり、その外交の根強い伝統でもあります。冷戦時代が、むしろ例外だったといえます。我が国は、今後どのような大統領があらわれても、米国から少しずつ距離を空けられていくことを覚悟をしなければなりません。

これによりアジアに「力の空白」が生じます。そして、すぐお隣に、その空白を力づくで埋めようとする勢力が、虎視眈々と狙いを定めています。

こうしたきわめて厳しい国際情勢の中で、日本の政治は、これまでの長い歴史体験の中から、早晩「自分の足で立つ」という志を思い出さなければいけません。自分の足で立つことによってしか、政治の基本である国民の生活を守ることができないからです。

私の政治信条の第一は、ここにあります。